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真の平和に向けて歩み続ける

以下 ブログ[五右衛門風呂って気持ちのよか]から転載させていただきます。

今日出社し、メールチェックをしていたら、お気に入りの雑誌 「致知」 のメールマガジンより心に残る記事が紹介されていたので、まずそれを転載したい。
偉人たちの一日一言 平成28年5月28日(土)
 
 おはようございます。
 昨日、米大統領のオバマ氏が 現職大統領として初めて広島を訪問し、
 原爆慰霊碑に献花されました。
 歴史的な日を迎えた今こそ、 あの日何があったのか、 先人たちはどのようにしてそこから
 再び立ち上がってきたのか……
 今一度振り返るきっかけに していただければ幸いです。

 1945年8月6日朝。
 私は13歳。広島の女学生でした。

 その日、  私たちは学徒動員に駆り出され、 学校の外で作業に取り組んでいました。
 見上げた真澄の空に銀色の飛行機と 白い飛行機雲が見えました。
 クラスメイトのとしちゃんに 「見てごらん、きれいよ!」 と指を差した時、
 飛行機から白いものが落ちていくのが見えました。
* * *
 どれだけ時間が過ぎたのでしょう。
 意識が甦って、叩きつけられた 地面から顔をもたげました。 とても静かでした。
 なぎ倒されて焼けこげた、 見たこともない世界が、 音もなく広がっていました。
  そばには友人と見定めがたいほどに 黒こげになった死骸が転がっています。 
 黒く煤けた幾人もの人が、 服ばかりか はがれた皮膚まで引きずり、
 血に染まった裸同然の姿で、 漂うように歩いています。
 それは私自身の姿でもあったのですが、 それに気づくこともありませんでした。
 私は人々が漂っていく方向に 歩き出しました。
・ ・ ・ ・ ・ ・
 意識がはっきりした時、 私は蚊帳の中に横たわっていました。
 家は、母屋は焼けましたが、 別棟が残っていたのです。
  行方の知れない私を、 家族はどんなに心配したことか。
 だが、近隣の世話役だった父は残った玄関で、千田町1丁目の住人に
 戦災証明書を書く仕事がありました。
 原爆で何もかもなくなってしまった人々にとって、汽車に無料で乗ったり、
 医者の診察を受けたりするために、 それが唯一の証明書だったのです。
 とても手が離せません。
 もっぱら母が市内のあらゆる場所を巡って私を探したといいます。
 原爆投下から5日後、証明書を書いてもらいにきた人から、小学校の講堂に
「家は千田町1丁目と言っている子がいる」と聞き、もしやと思い、ようやく 私を探し当てたそうです。
 記憶にはありませんが、 誰かに自分の住所を告げていたのでしょう。
 
 私は顔から喉、全身の4分の1が丸こげでタドンのようでした。 しかし薬などはありません。
 父が黒こげの皮をハサミで切り取ると下にたまった膿を母が食用油でふきとりました。
それだけが治療でした。
 傷が少しずつ治まるにつれ、痛みに呻(うめ)くようになっていったのです。
母の配慮から、家には鏡が置かれなくなりました。
それを不思議とも思わずに過ごしてきましたが、ある時、庭に出ると 鏡の破片が落ちていました。
それを覗き込んだ時に映った顔──。
眉毛もない、睫毛(まつげ)もない、肉が盛り上がってピンク色した肌、上下とも反り返った唇、
そして短く刈られた頭……。
それが自分の顔だと気づいた時、私は氷水を掛けられたように身震いしました。 あの時の心境は、ショック、という 言葉しか思いつきません。
しかし、私はそれを受け入れるよりほかありませんでした。
もちろん、葛藤もありました。しかし、私の周りにはいつもさりげなく、しかし深い深い愛情で支えてくれた両親やきょうだいがいました。
自分が子供を持ち、親となって、初めてあの時の両親の思いを知りました。
もし、わが息子が同じ目に遭ったらと 考えると、どれほど耐え難いか。
 自分が代わってやりたい。 それが無理なら何としても元の姿に戻してやりたい。
きっと両親はそんな思いで過ごしていたのでしょう。
しかし、何も言わず、ただ静かに私を見守り、支えてくれました。
・ ・ ・ ・ ・ ・
 私は被爆体験者として、ありのままを語り続けてきました。
 近年は各国の核の情勢からその活動が増えており、2007年には日系4世の映画監督スティーブン・オカザキ氏の『White Light Black Rain(白い光、黒い雨)』にも出演しました。
この作品は冒頭、日本の若者に「1945年の8月6日は何が起こった 日か知っているか?」
という質問を投げかけます。
「分からない、歴史に弱いので」
「もしかして地震?」
私が体験した65年前の地獄絵図のような出来事は、もはやいまの日本では忘れ去られようとしている。 その事実に呆然とするばかりでした。
しかし、一方で私の体験談を聞いた若者たちは、皆必ず何かを感じ取り、戦争のない社会、核兵器のない社会をつくろうと目を輝かせてくれます。
いい社会にしたい、平和な社会を築きたいという思いは本当は誰にでもあるのです。
 しかし、その芽はいまはまだ固い土に覆われています。
その土を取り払い、大きく育つよう心を耕すために私は語り続けなければならないと思うのです。
  仮にもし、私が原爆に遭わず、大やけどをしていなかったら、
いくら「平和」と訴えても人の心には響かないでしょう。
 そう思うと、やはりすべては神の摂理だったと思わざるを得ません。
あの日、一緒にいた友達のほとんどは亡くなりました。
薬もなく、飲まず食わずで横たわっていた5日間。
 生きていたこと自体が奇跡でした。アメリカに渡ることも私が切望したことではなく、呼びかけに応じてここまでやってきた。
その道程を思うと、私には与えられた使命があるのだ、と思わずにはいられません。
・ ・ ・ ・ ・ ・
1人で平和は実現できませんが、誰かが動かなければ多くの人を動かすことはできない。
そのために私はいつも若者にこんな メッセージを送っています。
素晴らしい人生を送り、素晴らしい社会をつくっていくのに必要なものは3つある。
それは勇気と行動と愛情です。
勇気と行動だけでは、戦争に結びついてしまうことがある。
行動と愛情だけでは、物事を変革するのに怖じ気づいてしまうことがある。
勇気と愛情だけでは、きれいごとを言うだけで終わってしまうことがある。
この3つが揃って、初めて物事を成していくことができるでしょう、と。
私にとって平和な社会を実現することは、いつの日か叶えたいという夢や希望ではなく、必ず成し遂げるミッションです。
 私と触れ合った人たちが自分の中に眠っていた平和への思いを目覚めさせていくことを願い、
きょうも1つひとつの出会いに心をこめていきたいと思っています。
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「真の平和へ向けて歩み続ける」
 笹森恵子(ささもり しげこ)(米国在住被爆者)
『致知』2010年8月号 特集「思いをこめる」より
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原爆を日本に落とした国のボスである、オバマ大統領が昨日広島を訪問した。
米兵元捕虜が立ち会う計画が見送られたりした事から、「真剣に広島訪問を考えていない」 といった感じの論調も聞いたりした。
けれども、当初短い予定だったはずのスピーチが17分にも及んだ点をみても、オバマ氏の今回の訪問にかける意気込みを感じた。
ライブでは聞けなかったので、ユーチューブで全部見た。
正直な所、同時通訳が聞き取り難い感じはあった。
英語のみのものも少し聞いてみたが、分からないなりにも、英語で聞いた方が、オバマ氏の熱意というものを感じた。
新聞紙面での日本語訳も全部読んでみたが、自分は今回の訪問は非常に良かったと思う。
原爆資料館の滞在が僅か10分だったのはいただけないが。
アインシュタインだか、オッペンハイマーだか知らないが、、原爆を開発した過去に時計の針を戻し、それを阻止する事ができれば・・・・
馬鹿げていると分かってはいるが、真剣にそう思ってしまう。本当に要らん物を作ってくれた。
オバマ氏の任期は後8カ月と聞く。
この訪問を契機に、停滞していた核削減への道を突き進んで欲しい
以上はブログ[五右衛門風呂は気持ちのよか]からの転載です。